難波田城資料館の「私年号板碑」が新聞で紹介されました
最終更新日:2019年3月22日
平成31年3月21日、全国紙の新聞で、当館所蔵の「私年号板碑」が紹介されました。
確認した記事
読売新聞[東京本社版]3月21日朝刊34面(文化面)
ネット版“[日本人と元号]<下> 乱世物語る 3元号並立”https://www.yomiuri.co.jp/culture/20190320-OYT8T50132/(外部サイト)
解説
私年号とは
戦国時代には、朝廷が定めたものと異なる年号が流布することがありました。それらを「私年号」と呼びます。戦乱や災害が続いている時期に改元の噂が流れると、信じられやすかったといわれます。
板碑とは
鎌倉時代から戦国時代に盛んに作られた、板状の石碑です。塔婆の形で、上部に仏を示す
福徳年号板碑
新聞で紹介された板碑は、難波田城資料館常設展示室でごらんいただけます。難波田城跡で発見されたものです。高さ66センチとやや小振りで、「妙鏡
「福徳」年号を持つ板碑は、埼玉南部から多摩を中心に分布し、50例以上が知られています。そのうち6例が富士見市内で見つかっています(詳しくは平成16年春季企画展図録『富士見之板碑』をご覧ください)。市内の板碑を年代順に並べると、延徳2年(1490)3月の日付を持つ板碑の次に、福徳元年
福徳への願い
「福徳」の2文字は、良い意味の字の連なりで、いかにも年号らしい雰囲気です。しかし、意外なことに、公式の年号で「福」が用いられたことは一度しかありません(天福:1233-1234年)。
この時代、福・徳の2文字とも、現在以上に経済的なニュアンスがありました。福神は貧乏神と対になる、豊かさをもたらす神であり、富んだ人を
また、この頃の関東地方は、二大勢力の対立による戦乱が続いていました。相次ぐ災害や
そのような情勢であったからこそ、豊かさを意味する年号へ改元したという情報が、広まりやすかったと想像できます。