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No,27・・・南畑・東大久保地区

最終更新日:2019年1月25日

【南畑】

南畑は新河岸川と荒川に挟まれた低地にあり、古くは難畑、あるいは難波田と書かれました。永禄2(1559)年に作成された『小田原衆所領役帳』に記された郷村名には難波田とあり、南畑八幡神社にある石碑には正徳3(1713)年難畑の文字が認められます。『新編武蔵風土記稿』には、「村名は元難畑或は難波田と書せしが、當村は荒川と新河岸川の下流に添し地にて、屡水災に罹りしを、土人憂ひて村名の文字悪き故ならんと改めたき由、安永元(1772)年御代官久保田十左衛門が支配たりし時、公に訴しかば松平右近將監より下知ありて、今の如くに書改めしと云、」とあり、この地が水難を受けることが多かったことを憂いて現在の文字に改めたとされています。また、南畑の土地自体の開拓は、古くは奈良・平安時代にまでさかのぼると考えられます。旧地図を見ると現在の富士見市立特別支援学校やみどり野南周辺は二之坪、三之坪と呼ばれ、この坪の付く地名は条里制度(古代から中世にかけて行われた耕地区画制度)に基づくものと思われます。

小田原衆所領役帳
小田原衆所領役帳(一部抜粋)

南畑八幡神社・石碑
南畑八幡神社境内にある石碑


【東大久保】

荒川と新河岸川に挟まれた低地にあり、『小田原衆所領役帳』には「大窪丹後 同内匠助 同勘解由 五拾五貫文 入東 大窪郷」、慶安元(1648)年の検地帳にも「大窪村」という文字が見受けられ、古くは大窪と称したことが伺えます。市内には窪の付く地名がいくつかありますが、これは窪地の意味で、窪地状の地形により起こった地名と考えられます。明治12(1879)年には郡区町村編成法の実施により、同郡内(現在の毛呂山町)に同じ大久保村があったため、毛呂山町の大久保を西大久保、当市の大久保(旧大久保村)を東大久保と改めました。

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