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国指定史跡水子貝塚について

水子貝塚の発見と貝塚研究のための発掘調査

明治時代の発見記録

水子貝塚は、明治27年(1894)10月25日にこの地を訪れた阿部正功(註01)によって発見され、その後、『東京人類学会雑誌』第10巻第106号(註02)に紹介されました。この時は市内の貝塚山遺跡(渡戸1丁目)と大王(応)子前貝畑(水子貝塚)を訪れており、その様子は「明治二十七年遺跡探索記」(註03)に詳細が記されています。

大正時代の報告

大正6年(1917)、安部立郎(註04)により「日本石器時代人民遺物発見地名表」に貝塚山・勝瀬・水子大応寺前貝畑(註05)、針ヶ谷、南畑(氷川神社の石棒)が記録・報告されました。


昭和戦前に行われた貝塚研究・集落研究のための発掘

昭和12年(1937)12月、酒詰仲男(註06)は安部立郎の報告した地名表から水子貝塚を再認識し、昭和13年(1938)12月、和島誠一(註07)等とともに2カ所の貝層を伴う竪穴住居を発掘(第1次調査註08)しました。その時は16カ所の地点貝塚の分布を調査し、地点貝塚が馬蹄形に分布する状況を確認しています。


昭和14年(1939)10月、最大の地点貝塚に伴う竪穴住居を中心に発掘(第2次調査註09)しました。この第1・2次調査により、地点貝塚を調査していけば集落の全容を明らかにする見通しが立てられた遺跡として評価されました。
また第2次調査の直後、この時までに踏査して発見していた打越(おっ こし)貝塚(東みずほ台2丁目・現在のみずほ台小学校近辺)も発掘しています。

報告された水子貝塚

水子貝塚で行われた発掘の様子や成果は、『考古学』第11巻第2号や『貝塚』第5号・第6号に掲載されています。

昭和戦後の研究と取り上げられた水子貝塚

昭和23年(1948)、和島誠一は『原始聚落の構成』(註10)を発表し、この中では水子貝塚の地点貝塚分布図が掲載されています。
また酒詰仲男は一般向けに『貝塚の話』(註11)を著すとともに、全国の貝塚を集成した『日本貝塚地名表』をまとめました。『日本貝塚地名表』には水子貝塚も記されています。

国史跡指定へ向けた動き

縄文海進研究のための発掘

和島誠一が所属していた財団法人資源科学研究所(資源研)は、昭和39年度(1964)から昭和41年度にかけての3年度で「関東地方における自然環境の変遷に関する総合的研究」(註12)を行い、その一環として縄文海進の最高海水準を明らかにしようとする研究を行いました。
その中で市内の水子貝塚と打越貝塚が調査対象になり、昭和41年(1966)2月に打越貝塚、昭和42年(1967)1月には水子貝塚の発掘(第3次調査)が行われました。
この時は遺跡周辺低地のボーリング調査も行われ、珪藻(けい そう)化石分析など自然科学分析も行われました。

第3次調査

第3次調査(註13)は昭和42年(1967)1月に行われ、貝層を伴う前期黒浜式の竪穴住居1軒、諸磯b式の竪穴住居1軒等が発見されました。同時に行ったボーリング調査では貝塚50カ所が確認され、環状にめぐる集落の形態が明らかになりました。

国史跡指定へ

第3次調査終了後に当時の富士見町は水子貝塚について、地点貝塚を伴う縄文前期集落としての学術的価値を認め、保存措置の手続きなど、国史跡指定へ向けた動き(註14)を進めていきます。そして、昭和44年(1969)9月9日の官報告示で国史跡に指定されました。

史跡整備事業に向けて

指定後も史跡指定反対の陳情等が行われましたが、昭和45年(1970)9月には保存への協力(水子貝塚保存会の結成)が得られることとなり、昭和45年度中に公有地化に着手して、史跡整備の第一歩が踏み出されました。

史跡公園整備事業の経過と史跡公園開園まで

史跡公園整備事業と第4・5次調査

史跡整備に向けて、公有地化と並行して整備計画の事務局案がいくつか作成されましたが、昭和52・53年度の事業(註15)昭和58・59年度事業(註16)を通して保存計画の具体的な検討が進められました。その一環として昭和53年(1978)6月から地形測量と67カ所の地点貝塚の分布調査(第4次調査)と、昭和59年(1984)2~3月には再分布調査(第5次調査)を実施しました。また市民に向けての文化財シンポジウム(註17)も開催されました。
地点貝塚が環状にめぐるという特徴を基礎として、広場・復元住居・植栽等を整備するという当初に策定された保存管理計画は、平成3年度の基本設計・実施計画に引き継がれて整備が具体化していきました。

史跡整備のための発掘調査

平成2年度からは史跡整備に伴う展示資料収集を目的とした第6次調査註18)を、平成2年(1990)12月から平成4年(1992)12月にかけて実施しました。第6次調査は展示館施設建設地や現在の第15号復元住居の位置の貝塚を発掘しました。第15号住居からは、良好な貝層と埋葬人骨や犬骨を発見し、水子貝塚を理解する上で貴重な資料を得ることができました。

縄文ふれあい広場 水子貝塚公園

平成3年(1991)から3カ年で整備、平成6年(1994)6月に「縄文ふれあい広場 水子貝塚公園」として開園しました。
平成10年(1998)、考古館(註19)を史跡隣接地に移転、平成12年(2000)には水子貝塚資料館と改称し、資料館・史跡・自然が一体となった野外博物館的施設となりました。

史跡の活用

現在は小中学校の学習の場、地域の憩いの場として、市民団体・地域団体、市民学芸員等と協働で各種事業を実施しています。


埼玉県内の国指定史跡の貝塚



神明貝塚のホームページで、シンポジウム「国史跡の貝塚と活用ー水子、黒浜、真福寺、神明の現状とこれからー」の動画を公開しています。



(註01)阿部正功(あべまさこと)は、陸奥国棚倉藩(現在の福島県東白川郡棚倉町)の最後の当主で、明治時代には華族(子爵)に列せられた人物です。幼い頃から学問好きで、遺物・遺跡に深い関心を持ち、明治20年代、主に東京・埼玉・神奈川の遺跡を訪れ、記録し、人類学会で発表しており、坪井正五郎や鳥居龍三等、当時の学会の人々とも交流し、自宅に収集資料を展示していました。


(註02)『東京人類学会雑誌』第10巻第106号では、市内の貝塚山遺跡(渡戸1丁目)もともに紹介されており、貝塚山遺跡には水子貝塚を訪れた6日前の明治27年(1894)10月19日に訪れています。阿部正功が訪れた貝塚山は、現在は削平されて貝塚も残されていませんが、市立第三保育所の北側、現在の「ららぽーと富士見」の北西約200~300メートルの舌状台地上にありました。
この貝塚山には、明治40年(1907)には東京帝国大学人類学教室の教室員と学生が踏査した記録があり、明治43年(1910)には同所にあった貝塚稲荷社の跡地から古墳時代の鉄刀と人骨が発見されています。明治40年の来訪や明治43年の鉄刀と人骨の発見の由来を記し、貝塚がコロボックル人の残したものと記載した「貝塚稲荷旧跡碑」(市指定文化財・通称:コロボックルの碑)が以前は貝塚山に建てられていました。(現在は市立第三保育所の脇に移されています。)
大正7年(1918)10月には鳥居龍三・谷川磐雄(大場磐雄)が訪れ、その際の見聞には、「…塚の高さ八尺余(約240センチメートル)、周囲の歩測八十歩、円形で全部貝を以て築いている」、「且つ塚の周囲には幅約二間(約360センチメートル)の(くぼ)み((ほり)の如き)をめぐらせてある」とあり、貝塚があった場所に古墳が築かれていたと考えられます。


(註03)「明治二十七年遺跡探索記」(学習院大学史料館寄託資料)によると、明治27年(1894)10月25日、武蔵国各郡内の貝塚踏査を目的に、浦和からは人力車、秋ヶ瀬では渡船に乗り、近くの農民から「大王(応)子前畑」に貝塚があることを聞き、水子貝塚を訪れました。畑を歩き100m四方以上に広がる地点貝塚を確認し、農夫に試掘を依頼しています。記録によると1尺(約30センチメートル)ほどの黒土下に貝層があり、貝はシジミ、ゴーラ(タニシ・カワニナ等の巻貝)、カキであったと記しています。


(註04)安部立郎(あんべたつろう)は、大正デモクラシー期における川越地方の知識人です。郷土史家の一面も持ち、入間郡内の考古資料や板碑等の資料を精力的に収集していました。


(註05)水子貝塚は「水谷村 水子・大応寺前貝畑 土器、打石器」と記録されています。


(註06)酒詰仲男(1902~1965)は、先史時代の生活復元を目標として貝塚を中心に研究し、『日本貝塚地名表』、『日本縄文石器時代食料総説』等、貝塚研究に不可欠な基礎資料を残しました。戦前の水子貝塚の第1・2次調査の中心人物です。東京帝国大学人類学教室等を経て同志社大学文学部教授。


(註07)和島誠一(1909~1971)は、史的唯物論の立場で原始古代の集落研究で業績を残しました。水子貝塚の第1~3次調査に参加し、集落研究と縄文海進の研究で水子貝塚を取り上げました。また、文化財保存運動や日本学術会議等各種学会でも活躍しました。東京帝国大学人類学教室、資源科学研究所等を経て岡山大学文学部教授。


(註08)第1次調査は、昭和13年(1938)12月16~26日にかけて東京考古学会縄文式部会として酒詰仲男・和島誠一等が中心となって2カ所の貝層を伴う竪穴住居(現在の第1・2号復元住居の位置)を発掘しました。土器は竪穴住居からは黒浜式、貝層上から諸磯式、石器は磨製石斧や打製石斧、貝はシジミが主体でカキが混じり、動物はシカ等、魚はスズキ等が出土したことが報告されています。


(註09)第2次調査は、昭和14年(1939)10月18~31日にかけて東京帝国大学人類学教室(長谷部言人)による発掘として行われました。調査した貝塚は「12号貝塚」としていた水子貝塚でも最大の地点貝塚で、竪穴住居から貝があふれる程の貝塚でした。10月22日には、東京人類学会の水子貝塚見学遠足会が開催され、約60人の人類学会員やその家族が発掘に参加しました。この時の遠足の報告が『人類学雑誌』第54巻第11号に「水子貝塚見学遠足会の記」として報告されています。
この第1・2次調査は、縄文時代前期の地点貝塚が竪穴住居に埋まりかけた凹みに遺棄されていることを確認するとともに、地点貝塚の調査を追って続けていけば、結果的に集落の全容を明らかにすることができる見通しがたてられた遺跡として評価されました。


(註10)『原始聚落の構成』は、和島誠一が昭和23年(1948)に発表したもので、縄文時代から古墳時代における集落の変遷を論じました。後に「和島集落論」と呼ばれるもので、中期の尖石遺跡・姥山貝塚とともに、前期の水子貝塚を事例に挙げ、中央に広場をもつ馬蹄形・環状集落が強い規制力による氏族共同体的な集団関係を指摘しました。


(註11)『貝塚の話』は、酒詰仲男が一般向けに著したものです。また『日本貝塚地名表』は全国の貝塚を集成しまとめたもので、市内では水子貝塚の他に東渡戸(ひがし わた ど)貝塚(貝塚山遺跡)・山室貝塚(山室遺跡)・谷津貝戸貝塚(御庵(ご あん)遺跡)・鶴間宿貝塚(殿山遺跡)・打越貝塚(打越遺跡)が記されています。


(註12)「関東地方における自然環境の変遷に関する総合的研究」は、昭和30年代に縄文海進・海退の研究を進めていた和島誠一が所属していた財団法人資源科学研究所(資源研)の事業として昭和39~41年度の3カ年で行われた総合的研究です。その一環として縄文海進の最高海水準を明らかにしようとする研究が行われました。
関東地方の貝塚から地域、時期、鹹度などから調査対象が選ばれ、水子貝塚は荒川支谷(古入間湾)の遺跡として打越貝塚とともに調査対象となりました。打越貝塚は昭和41年(1966)2月に発掘が行われ、水子貝塚は昭和42年(1967)1月に発掘(第3次調査)が行われました。
この研究は、発掘だけではなく遺跡付近の低地のボーリング調査も加味し、珪藻(けいそう)化石分析などの自然科学分析と総合した研究で、各地の調査データから最高海水準は上限をとっても現在より+3.5m以下であると指摘しました。
この時には南堀貝塚付近(神奈川県横浜市)・花野井貝塚付近(千葉県柏市)・粟島台遺跡付近(千葉県銚子市)・奥野谷貝塚(出羽貝塚・茨城県神栖市)・江川貝塚(土塔貝塚・茨城県五霞町)・新井宿貝塚(石神貝塚・埼玉県川口市)・上新宿貝塚(千葉県流山市)・広畑貝塚(茨城県・稲敷市)の発掘や地質調査等が行わています。


(註13)第3次調査は昭和42年(1967)1月、農地改良(天地返し)の実施予定をきっかけに、記録保存のための発掘とボーリングによる貝塚の分布調査が行われました。調査担当者は和島誠一で、発掘では貝層を伴う前期黒浜式の竪穴住居1軒、諸磯b式の竪穴住居1軒等が発見されました。またボーリング調査の結果、環状にめぐる貝塚が50カ所確認され、集落の形態や水子貝塚の規模が明らかになりました。


(註14)国史跡指定に向けた動きとして、第3次調査終了後に当時の富士見町は学術価値を認め、昭和42年(1967)5月、県に保存についての緊急措置を要望、昭和43年(1968)2月に国史跡申請書を提出して保存措置の手続きを進めました。
この時期は平城宮跡の保存が決定し、加曽利貝塚の保存運動等が続くなど、全国的に遺跡の保存運動が進められており、発掘関係者・文化財保護対策協議会・埼玉考古学会をはじめ多くの団体から水子貝塚の保存要望が出されたようです。
しかし申請手続きが進む一方で土地所有者への説明が十分に行われなかったことから、指定への反対運動も起こりました。


(註15)昭和52・53年度の事業として、2カ年で「水子貝塚保存管理計画事業」を実施して、具体的な環境整備計画案を作成しました。「保存管理計画」策定のために地形測量と地点貝塚の分布調査(第4次調査)を実施し、67カ所の地点貝塚を確認しました。また保存の決まった水子貝塚での発掘は、必要最小限に留められました。


(註16)昭和58・59年度の事業として、2カ年で「水子貝塚基本計画事業」を実施して、保存管理計画の具体的な検討を進めました。また「保存整備基本計画」策定のための再分布調査(第5次調査)を実施しました。


(註17)文化財シンポジウムは、昭和57年度に「文化財シンポジウム-私たちのくらしと史跡-」、昭和59年度には市民有志による地域シンポジウム「遺跡の街・富士見」が開催されています。


(註18)第6次調査は、水子貝塚公園の史跡公園整備事業実施に伴い平成2~4年(1990~1992)にかけて行いました。調査は水子貝塚展示館や便益施設の敷地部分と、展示資料を得るために15号復元住居の位置の貝塚を発掘しています。その結果、15号住居からは人骨(女性)・犬骨(オス)・土器・石器等と多量の貝が出土しました。また調査の際に貝層を剥ぎ取って、水子貝塚展示館の貝層展示に使用しています。


(註19)考古館は昭和48年(1973)に富士見市上南畑に設立された施設。平成10年(1998)に水子貝塚公園の隣接地に移転し、平成12年(2000)6月に水子貝塚資料館に改称して現在に至っています。